訪問看護ステーション、4月から開業します!

訪問看護ステーションの申請が通りました

いよいよ新年度ですね。昨年末から訪問看護ステーションの新規開業に向けて手探りで右往左往しながら準備をしてきました。前回の「開業まであと少し」で投稿した通り、3月22日時点ではまだ指定をいただいていませんでした。結果が届き指定を受けられたのは3月26日。申請書が受付されてからちょうど一か月です。

ほぼ大丈夫だろうとは思っていました。だって、直前まで何の連絡もないまま4月からの開業は無理ですよ~とはならないでしょう。だめなら早い段階で訂正案をいただけるはずだし、悪い知らせがないからきっと大丈夫…と思ってはいても!内心ハラハラモヤモヤの日々、そして郵便受けを1日何回ものぞく日々でした。

どのあたりが大変だったか

会社を設立する、法人としての口座開設やもろもろの契約をする、事務所を借りて拠点を作る。いろいろ知らないことが多いけれど、調べながら進めていけばひとつづつクリアしていける事柄です。あとは資金があればそれなりに解決していくことでもあると思います(資金はギリギリでしたが…)。

一番大事だと感じるのは、あくまで自分の感覚ですが、やはり「何をしたいのか・どうしてしたいのか・どうなりたいのか」を明らかにしていくことだと思いました。

正直、在宅やりたいし~病院勤務ももうあきたし~年取ってもこき使われてるの嫌だし~でも働かないと食べていけないし~・・・という気持ちも根底にはありました。もとい、今でもある。言い方を変えれば「もう看護師として働けるのもあと数年、残された看護師人生を悔いなく過ごしていくにはどうするか」になります。・・・本音は最初の〇〇だしぃ~のほう。

でもそれだけではステーションを開設しても続かない。動機や考えが甘いというのももちろんですが、自分が何をしたいのか、きちんと言葉にして発信しないと「人の心が動かない」からだと思います。訪問看護ステーションは人に対して人がサービスを提供する仕事です。私たちが提供するサービス=価値は何なのかが伝わらなければ、受け手の人の心は動きません。

もう一つ動かしたい「人の心」は

もちろん働く仲間です。働く仲間も「何をしたいのか・どうしてしたいのか・どうなりたいのか」をつたえなければ心を動かしてくれません。働く仲間というのはステーションのスタッフであり、連携する医療機関のスタッフであり、地域医療介護を支えるケアマネージャーであり、もっと広く見ると医療介護以外で支援したり見守ったりしている地域の人々です。

その中でもステーションのスタッフの確保はとても大変なことだと実感。まず指定申請するためには人員基準を満たしてなくてはいけません。これって、ものすごく大変なことだと思いませんか?これから準備して、指定を受けられないと開業できないという状況で働く人を確保するんですよ!?平たく言えば、働く場所ができるかまだ予定だけど雇用契約してね、ということです。当然ながら、指定を受ける前の状態では募集活動もできません。新規で訪問看護ステーションを立ち上げる多くの方は、自分の力で立ち上げスタッフを見つけて協力を求めて契約するのです。・・・これも資金がたくさんなら、もっとほかの方法があるのでしょうけれどね・・・

幸い、自分の周りで一緒に働いてくれるという仲間が見つかり開業にたどり着きました。でもこれから安定してサービスを提供しつづけるためには、もっと仲間が必要です。求人活動にはお金もかかるでしょうけれど、やはり今いるスタッフに続けてもらえること、新しいスタッフに来てもらえることに必要なのは「人の心」を動かせないといけない。そのためには、繰り返すけれど「何をしたいのか・どうしてしたいのか・どうなりたいのか」という軸をしっかり持つことかなと思います。

一年くらい前は、ふんわりと「訪看ステーションでもつくろうかな~」と軽率だった私に喝を入れたい。でもそれから頑張ってここまで考えられるようになった私にはナデナデしてあげよう(自画自賛)。

開業まであと少しです

指定の申請

訪問看護ステーションを始めようと思って、場所が決まるまでだいぶドタバタがありました。1月の後半に入居することができ、さて2月の初めには申請書を送付しなければなりません。事業開始予定のどのくらい前までに申請書を送るのかは、自治体によって違うようです。他県に住む知人は、訪問看護ステーションを開業しようと思い立ってから2週間で申請手続きを終えたというツワモノでしたが。

東京都の場合、開業予定月の3ヶ月前に申請前セミナーの受講があります。そのセミナーの申し込みはさらに前月の月末までです。つまり4月1日に開業しようと思ったら、12月末までにセミナーを申し込み、1月にセミナーを受講し、2月中頃までに申請書を送付するという段取りになります。

12月の時点では事務所の物件も決まっていないので受講手続きするべきか悩みましたが、少しでも先に進もうという気持ちでやれることはやっておこうと思いました。もしセミナーを受けたのに開業準備が進んでいなかったとしても、大した問題じゃないと腹を括って正解でした。前に投稿した通り、1月初めに幸運の物件にあたりギリギリ入居できたのですから。

指定申請に必要なもの、その1…「場所」と「什器」と「通信」

訪問看護ステーションとして機能できるための設備として、事務をする場所・事務用の机と椅子・個人情報を取り扱うので鍵付きの書庫・固定電話とFAXは必須です。広さの規定はありませんが、利用者さんなどと面談するための部屋(もしくはパーテーションで区切ったスペース)が必要なので、結局そこそこの広さは求められます。あと必須なのが「手を洗う場所」で、独立洗面台が望ましいです。水場がキッチンだけの場合、手洗い場所として使用しても良いけど、その場合はキッチンとして使ってはいけないという決まりがありました。ご飯は作らないとしても、コップなんかは洗いたいですよね・・・やっぱり洗面台は必要。あと、トイレとバスが一体になっているユニットバスの洗面台はNGだそうです。

契約したい物件が、事業所として適しているか事前に確認するのはとても大事です。契約してからNGだったでは遅いですよね。指定申請の相談窓口では、その物件で大丈夫かどうかを事前に相談することができます。これは必ず相談しておいた方が良いと思います。

鍵付き書庫、これも必須アイテム。そして置き場所も重要で、相談者さんが通る場所とか見える場所とかに設置してはいけない。事務所の中のレイアウトも重要です。やはりここでも広さが必要になってくる。そして扉が透明なガラスの場合は目隠しも必要。結構厳重なんです。「訪問看護ステーションって、ワンルームのアパートなんかでもいいんだよ」とはよく聞きますが、そうもいかないなと実感。

そして固定電話とFAX。指定申請には番号を取得しておかなければならない。これも結構ギリギリでした。FAXはeFAXにすればもっと早かったけれど、FAXだけ先に取得しても仕方ないし、結局一緒に2回線申し込んだ方がいろんな手間が少なく済むので、効率を優先しちゃいました。eFAXの方がペーパーじゃなくでPDF保存できるのでよかったんですけどね。まあ、後から変えられるからヨシとしました。

指定申請に必要なもの、その2…私たちが行うことの明文化

当然のことながら、私たちが行なっていく事業の詳細を明文化しなければなりません。運営規程、どこで何を行なってどのくらい報酬を得るのか。サービス提供においてそのサービスをどう保証するのか…みたいな。

なかなか手強かったのは、やはり「加算」と「料金」で、なんでこんない複雑なんだいとボヤきながら作成。介護保険にしろ医療保険にしろ、私たち国民が日頃汗水垂らして働いで収めている保険料を使うのだから当然なんだろうと自分を納得させて取り組みました。一個一個の加算の意味とか要件とか調べて、おかげで理解して作成することが出来た…と…思います………。

指定申請に必要なもの、その3…働くスタッフ

ご存知の通り、常勤換算2.5人、うち常勤1人のスタッフが必要です。一緒に働くと言ってくれたバディがいるので、あと少なくても0.5人いれば大丈夫…じゃあなかった!!準備に当たってずっと常勤換算2.5人、私がいてバディがいて大丈夫と思っていたら、管理者である私は管理業務と時間を按分しなければならないので1人にならない。まずい、非常にまずい。

幸い、知人ナースがパートで働くと言ってくれて、0.5人を確保していたので心に余裕を持っていました。しかし、私が時間按分する以上あと0.5人分を確保しなければならない。そのことに気づいたのは申請書を作り始めた1月末、それまで参考にしていた本やらネットの検索では管理業務との按分なんて書いてなかったハズ…でも見落としていたのかな…もうだめかな…

でもそこは、自分が働いていた病院の近くに開業しようとする強み、助けてくれる女神様はいるものです。本当にこの場所で、人脈を作れて良かったです。ちなみに、管理者が常勤スタッフ1人になるか、管理業務と按分なのかは自治体によって違うようです。他県の知り合いナースは「私管理者だけど1人に入るよ」と言っていました。

ということで働くスタッフも確保でき申請書類は完成しました。申請書類を最初に送ったのはこれもまたギリギリ2月15日、数日後に修正箇所の連絡をいただき提出し直すこと数回。自分でもしっかり見たつもりが、誤字脱字があったり、料金の計算が間違っていたり。申請書を確認してくださった方、本当に丁寧に見ていただきありがとうございました。そして2月27日に申請を受け付けていただき、今3月下旬ですが審査していただいている最中。4月1日開業できるかどうかは3月下旬にならないとわからない。けれど、たとえ3月31日に審査結果が出たとして、4月1日にはサービス提供できるよう準備をしていなければならない。

サービス提供して保険請求するって大変なこと。やはり、私たち国民が汗水垂らして収めた保険料は、貴重なお金なのです。

その看護目標は正しいのか、あるいは・・・

訪問看護ステーション立ち上げの過程を綴りたいのですが、大学病院時代の印象に残る患者さんのことを思い出しました。ちょっと横道かもしれません。

予後宣告されたFさんの本当の希望

大学病院時代に入院されていたFさんとそのご家族、そして私たち医療従事者の話。

Fさんは80歳代、腹部の癌で予後半年から1年と宣告されていました。非常に穏やかで真面目な性格の方で、怒るとか興奮するとかいうことが全くない方でした。自宅療養をしていたのですが、少しずつ食欲が落ちてきていたそうです。Fさんは以前脳梗塞になった後遺症で、嚥下障害が少しありました。それでも体力のあるうちは普通に食事が摂れていたのですが、癌で体力が落ちてくると嚥下機能も弱まってきて、耳鼻科で治療を受けることにしたそうです。

嚥下機能改善の手術をして、よくなったら家で過ごす。短期間の入院の予定でしたが、なかなか思うように治療の効果が得られません。手術をして、数日おいて嚥下の評価をする。機能改善がないのでまた手術の予定を立てる、手術をする、評価をする・・・確か3回ほど手術をしたと思います。食事を摂れないし癌末期でもあり、徐々に体力が落ちていきます。

まだ入院を継続して治療をしていく必要があるのか・・・私は疑問というか違和感を覚えました。病棟カンファレンスをしても「Fさんののぞみは食べられるようになること」「それはFさんの最後の希望」と。医師とも話しますが医師も「だって、Fさんは希望しているよ」「希望している限り、何とかしてあげたいよね。手術の効果は期待できないけど」

Fさんも穏やかに「先生にお任せします」と言います。奥様と娘さんは毎日面会に来ていましたが「先生も皆さんも良くしてくださって」「本人が食べられるようになりたいというのでね、無理言ってすみません」と言います。

院内退院支援のチームのカンファレンスでも「本人の希望なら仕方ないよね」

看護目標は「Fさんの希望通り食事が摂取できるようになる」「食事が摂取できるようになって自宅で療養できる」という内容だったと思います。

癌で予後半年、食欲も落ちてきた。けれどせめて少しでも家で奥さんの食事を摂って穏やかに過ごしたい。飲みこみにくさが改善したら、残された時間を家で過ごせる。そんな望みで治療を受けるために入院したのに思うように効果が得られないまま時間だけが過ぎていき、Fさんの体力は目に見えて落ちていく。カンファレンスで話した内容も、医師の見解も、何もおかしくないのだけど、何か違うんじゃないか・・・。

ある日の奥様と娘さんの面会時にお話をしてみました。Fさんと同じように穏やかで気遣いのあるご家族です。Fさんの今日の様子や今後の手術の検討など話をしながら、奥様と娘さんの不安げなというか悲しげなというかを感じていました。そして、ふと思ったことを口にしてみます。

「もう手術しないで、家に帰るという選択をしてもいいんじゃないですか?」

奥さんと娘さんは、急に大粒の涙を流して泣き崩れます。その理由は「そうしてもいいんですか?」「本当は誰かにそう言って欲しかった!」と。患者のわがままを聞いて一生懸命治療をしてくださっている先生に申し訳ない、皆さんよくやってくれて、また手術頑張りましょうと言ってくれて、申し訳ない。でもどんどん痩せていって、もう長くないのに、どうなっちゃうんだろう・・・。そう思っていたそうです、でも口に出していうことはできなかったそうです。というか、そう思っていることに気づいてもいなかったのかもしれません。

担当医師にも奥様と娘さんの気持ちをお伝えしました。それはきっと、Fさん本人の気持ちでもあると思ったからです。医師も少しホッとしたようでした。手術を繰り返しても効果は得られない、でもFさんの希望がある限りは・・・」と思っていたそうです。

Fさんもご家族も、医師も看護師も、誰かが誰かの思いを大事にしようとしていたことは確かです。でもグルグル回っているだけで、Fさんの本心が見えなくなっていた感じでしょうか。

最後まで希望を持ち続けることが、とても大事だと言われます。でも希望って何でしょう。最後を迎える日まで一日でも長く元気でいることでしょうか。自分らしく暮らしていくことでしょうか。Fさんの希望は残された時間を家で過ごすことであって、嚥下機能を改善して食べられるようになることは手段でした。でもいつしかその手段が目標のようになっていたのだと思います。Fさんご家族の他人への気遣い、医師や看護師への感謝の気持ちなどが本当の希望に蓋をしてしまっていたのかもしれません。

私が私らしく生きていくとしたら・・・死ぬ瞬間まで食にこだわり、美味しいものを口にして逝くというのも魅力的かも。

訪問ナースまでのわたしの軌跡を振り返ってみる

四半世紀以上の大学病院勤務

驚かれますが、私は新人ナースとして入職してから26年ものあいだ大学病院で勤務した後スッパリ辞めました。もちろん四半世紀どころか生涯大学病院勤務の人も多くいらっしゃるので、決して26年間勤めたというのは珍しいことではないと思います。が、皆さんが驚くのは、きっとそれだけ長い間大学病院にいて、なぜその歳になってなって辞めたの⁉︎ということでしょう。

正直、辞めた理由はたくさんあるのだけど、一言で言えば「新しい景色を見たくなった」といことのような気がします。新しい景色をみるというより、新しい景色の中で暮らしたくなったという事かな。

新しい景色がどんな景色で、どこにあって、ちゃんとそこに行けるのかもわからない漠然とした状態でしたが、やはり勢いというか人生のタイミングというか、ただの暴走というか…笑。残りの看護師人生をもっと楽しむためには、まだ頭も体も元気なうちに動こうと思った次第です。

初めて在宅療養に関わったのは

慢性呼吸不全の患者へのHOT(在宅酸素療法)が保険適用になり、私の勤める大学病院の内科でもHOT導入に向けた患者教育などに力を入れるようになりました。その時の師長が進めたのが、導入後の患者さんへの訪問看護です。でもその訪問看護を行うのは、なんと導入指導した「病棟看護師」。なぜ病棟看護師が訪問看護を行うのか。病棟勤務中に病棟の仕事を抜けて訪問するなんて。・・・正直、今でも疑問です。もちろんその当時も賛否両論で、とりあえずやってみようという感じでした。結局定着することなく数年で終了することになりましたが、このHOT導入患者の退院後訪問を行なったのが原点になったと思います。

患者さんのご家庭に伺って、酸素をしながら家族と共に療養生活を見て、生き生きとした表情や様子を見て、私の「患者さん」の見方はすっかり変わりました。「患者さんの背景を見て…」とか「全人的に捉えて」とか学生の頃から勉強してきました。わかっていたつもりでしたが、本当はわかっていませんでした。

患者さんではなく社会の中で生活している人

病院の白い壁をバックにパジャマを着てベッドにいるAさんは、本当は自宅の居間で子供に笑顔を向けているお父さんでした。

病院の白い壁をバックにパジャマを着てベッドにいるBさんは、本当はコタツでおばあちゃんと一緒にお茶を飲んでいるおじいちゃんでした。

病院の白い壁をバックにパジャマを着ているCさんは、上げ膳据え膳の病院とは違って、ご飯を作って「お昼ご飯、食べていきなさいよ」と世話好きのおばさんでした。

表現するなら、それまでは病院の白い壁とパジャマの背景しか見えていなかったのが、その人を囲む背景に色がついて、まわりに家族が見えてくる感覚。そんなの当たり前でしょう、それまで患者をなんだと思ってきたのよ?と、突っ込みたくなる方もいるかもしれません。自分でもそう思います。自分では理解していたつもり、出来ていたつもり、看護してきたつもり…全然足りなかったなあ。

この体験がきっかけで、私の看護は変わったと思います。そこは自信を持って言えます。自画自賛になるのでこれ以上の主張は控えますが。

退院支援を行う中で、着々と在宅看護への思いは育つ

大学病院では入退院支援にも力を入れていました。退院支援をするなかで患者やご家族の思いを聞いたり、どう生活していくか考えたりしていく中で着々と私の思いも在宅看護の方向に傾いていきました。

退院支援の研修の一環で、訪問診療クリニックの体験実習に行かせてもらった時のことです。その訪問診療の先生の「孤独な老人を一人でも救いたい」という強いメッセージに感動しました。そして、病院以外の場所で「生きるを支える看護」をすることへの関心が高まりました。

大学病院で長く勤務していると、役割とこ責任とか多くなってきて、そう簡単にはやめられません。病院での仕事も嫌いではなかったので、なんだかんだ四半世紀も居座ってしまいました。

地域医療の場に身を置いて、いよいよ訪問ナースの道へ

在宅医療への思いは高まり、ようやく大学病院を退職したものの、思うような景色を見れないまま時間だけは過ぎ、いい歳をして居場所も方向性も見失い、何よりもお金も無くなって働かないとマズイとなったときに入職したのがとある訪問診療のクリニック。このクリニックで地域医療のことや訪問診療のことをだいぶ勉強させてもらいました。何でもやらなきゃいけなくて、わかりませんとか言っていられなくて、地域医療の現場で体当たりで学ぶことになりました。ハードだったけど、やりがいあって楽しかったですね。訪問診療クリニックで経験したことは、少しこのブログの最初の方に投稿しています。まだまだたくさんの事件(⁉︎)がありましたので、いつか投稿しますね。

どうして開業する道へ行ったのか

訪問診療クリニックの後は、地域密着の個人病院勤務です。ここでも退院支援に力を入れてきました。そして、いよいよ看護師人生も終盤になってくるので、やりたいことはやっちゃおう!という勢いで訪問看護ステーションの開業に進みます。何だか雑いです。結局いろんな経験と思いがあっても、最後は勢いです。

大学病院も汗と涙の26年間だったし、訪問診療クリニックも超ブラックでした。でもどんなところで、どんな仕事をしていても、仕事は楽しかったしやってきてよかったと心底思っています。組織の制約の中ではあるけれど、自分のやりたいことをやらせてもらえていたと思います。

でももっと自由に自分の好きなように自分の看護をしたい!ということに尽きるのです。

訪問看護ステーション起ち上げようと思ってからしたこと

まず、どこから何から手を付けるの?

そう思いますよね。まずは、本屋さんに行きました。専門書を扱っている大きな本屋さんへ行って、数冊買いこんで、パラパラっとめくり眺める。どの本にも共通して載っていることから繰り返し読んでみる…のが、私のスタイル。一ページ目から丁寧に読むことは得意ではないのです。

訪問看護ステーション起ち上げに必須な段取りは何かというと、まずは法人設立、そしてヒト・モノ・カネをどうするか考えること。もちろん自分がどんな事業をしたいのか、なぜしたいのかなどは考えたうえで、が大前提ですよ。つまりは事業をしていく決意と理念を胸に抱いてからの話。

法人設立をどうしたか

法人設立は、昨年11月頃に取り掛かりました。4月開業を考えていたので、5か月前ということになります。そのころには幸い一緒に頑張ってくれるバディ(前回の投稿をみてね)ができていたので、あと一人探せばヒトは何とかなるから同時進行でいけるかな…と。といっても会社つくるってよくわからないので、「会社って何?」というあたりからググっていき、合同会社をつくればいいのね~というところまでは行きました。

でも定款とか法務局とかよくわからない、看護師しか経験のない私には印紙というものも聞いたことがあるけどね…というレベル。昨年はまだ病院勤務していて、休みの日に開業準備するという状況だったので、とある企業の会社設立サポートを受けることにしました。定款の土台も作ってくれて、印鑑も作ってくれて(有料)、どの書類を持って法務局に行けばいいのかも指示してくれます。しかし、一個一個の言葉の意味とか経験がないとわからない。印鑑が何種類必要なのかもわからない、角印って何に使うんですか?OLさんが聞いたら笑っちゃうレベルですよね、きっと。そうこうしているうちに、夜勤明けで法務局に行ったりして登記もして、12月に入ったころ何とか法人は設立できました。

いろんなことがニワトリとタマゴ問題に感じる

会社をつくって事業を始めるには、ヒトはもちろんモノとカネが要ります。そのモノの順番に毎回悩みました。事業所の場所を決めるのは最優先ですが、賃貸契約するのだから会社設立していることは必須です。で、契約するには会社の銀行口座とか電話番号とか必要なのだけれど、口座開くには電話番号が必要で、携帯電話契約には口座が必要で、固定電話には事務所が必要で、事務所契約には口座が・・・・・・・・・頭の中に鳥の巣ができてヒナがピヨピヨと鳴いています。結局個人の携帯電話を登録して会社の銀行口座をつくり、会社用の携帯電話も契約しました。やってみると悩むほどのことでもなかった気がしますが、一時期は「こりゃニワトリとタマゴだし…」と、思ったものでした。

結局はまず動いてだめなら戻ってやり直したりすることが必要ですね。考えていてもヒナが巣立って行って使い古しの巣が頭の中に残るだけですもの。

大事な自分たちの拠点

さて、手探りで会社をつくり口座もつくり、口座にカネをいれました。しかし拠点となる事務所を決めないと訪問看護ステーションの起ち上げ準備にはまだ取り掛かれません。実は、知り合いから格安で借りようと口約束していた物件がダメになり、途方に暮れることになったのは12月も暮れのこと…

東京都の場合、訪問看護事業を4月から始めるためには、2月には指定申請しなければなりません(申請期日は自治体によって違うようです)。指定申請には設備とか人員とか基準を満たしていることが必要で、事務所の賃貸契約はもちろん、固定電話とFAXも引かなきゃいけないし、什器もそろえなきゃいけないし。そのためには1月には入居できていないと無理でしょう。なのに12月末に物件が決まっていないなんて!多くの不動産屋さんは年明け9日から始業で、これは4月の開業なんて無理か?と思いました。でも休みの間にバディと一緒に不動産情報をネット検索して、年明けすぐに不動産屋さんに交渉して内見させてもらました。そしたら!ミラクルです、年明けすぐに内見した事務所がとても良いところで条件もばっちり、不動産屋さんもとても手際よく手配してくれて速攻賃貸契約へこぎつけられました。慌てはしたけれど、結果的に自分たちの満足する拠点が見つかったわけです。

1月中旬に賃貸契約し、急いでネット引いて固定電話とFAXを契約して(今時必要なんだね)、什器もそろえて何とか指定申請間に合いました。

何もかもギリギリの進捗でしたが、結果オーライです。

さて、次は設備ではなく中身を入れていく苦悩と苦労をお伝えしていきたいです。

*************************************ブログのタイトル変更しました。「みかんの木」には執着心がありますが、皆さんに認知してもらいたいのでわかりやすいタイトルにしたのでよろしくお願いします。

訪問ナースへの道を踏み出しました

昨年末で、病院勤務を終了しました。

2023年の年頭に「訪問看護ステーションを起ち上げる」ときめて、何から始めるか手探りしつつ日々過ごしていました。お金かかるし、事業立ち上げっていってもワタシニデキルカナ?なんて軽く考えていたときに、思い切り背中を押してくれたのは、その後バディになる年下のナース友達の「Kさん(私)と一緒に働こうと思う。今の病院、退職決めた」の言葉。

えええ~?仕事辞めるの?ってか一緒にやるって、本気?私で大丈夫~??

まずい、本気にならなきゃ!!!

本気になるきっかけができました。そして夢ではなく現実の道を歩き始めます。現実の道はイバラほどではないけれど、大きな岩を乗り越えつつの砂利道という感じ。訪看つくるにはまず法人格が必要で・・・ああ、社長になるのか・・・法人作るっていうのはそれなりに手続きが必要で、結構手間でした。とはいえ法人設立は訪看つくるうえでの土ならし程度。土台ができたところで、いよいよ夢を現実にするための場所を作っていきます。

事業所の命名

すこし話が前後します。法人を作る前に会社の名前や事業所の名前を決めなければなりません。名前決めは大事ですよね。訪看事業所としてわかりやすい名前、親しみやすい名前、覚えてもらえる名前、そして愛し愛される名前。自分たちが大事にしたいと思う名前。バディといろいろ考えました。

猫好きな私たちだから「”くろねこ”ってカワイイ」→「じいちゃんばあちゃんは黒猫嫌いかも。」「宅急便と間違われるかも」

縁起よく「七福」「丸福、いや、福丸」「福福」→「私たち、そこまで福々しくなれる??」

「おむすび」「おひさま」「まんまる」「七笑」「ひと笑」・・・・・・・

名は思いを表す…?

名前は、私たちの想いを表すものだと思いました。とても大事なものだと再確認しました。私たちが大事にしていきたいことは何?実現していきたいことは何?

私は編み物が好きで、暇を見つけては毛糸をいじっています。編み物って、一本の糸を紡いでいって丸くなったり四角くなったりして一つの形になっていきます。大きさもモフモフ具合も好きなように変えていけて、その人にちょうど良い形になってその人を暖めてくれるモノになります。編み物をしながら、ぼんやりと「紡ぐっていいなあ…」と一人ほっこりしていたら「つむぎ訪問看護ステーション」がポコッと生まれてきました。

想いをつむぐ、心をつむぐ、人生をつむぐ・・・いいじゃないですか!そして、私たちはさらに「地域のチカラ」もつむいでいこう。家で生活したい、自分らしい暮らしがしたい、そう思う療養者さんを支えるみんなを紡ぐステーションって、まさに自分のしたいこと。

理念が形になったロゴ

名前が決まったら、つぎはロゴマーク。形から入るって大事。私が入っているオンラインコミュニティサロンの方に作成を依頼して、とても素敵なロゴを作ってもらいました。ロゴを作るうえで「なぜ訪看やりたいのか」とか「10年後のビジョンは?」とか質問を下さって、その答えを考えて言語化しているうちに、さらに理念が形作られていきました。そのロゴがこちら。

このロゴは、自分の家で安心して暮らせること、そしてその暮らしはちゃんと外とつながっていて、周りは見守っていますよという安心感をあらわしています。正直、このロゴを作ってくださった方は、私たち以上に私たちの心を理解しているのではないか⁉と思っちゃいました。

こうやって、ひとつづつ手作りして事業をつくっていくって、なんて楽しいことでしょう。いやいや、なめているわけではありません。収益を上げていくって大変なことでしょう。だからこそ場所も名前も、そして仲間も愛して大事にしていきていのよね。

退院支援~103歳の「希(のぞみ)」

地域密着病院の急性期病棟で働いています。二次救急で搬送され入院してくる患者さん、圧倒的に高齢者が多い。病院あるあるだと思いますが、今や60代70代は「若い」、80代でそこそこ老人感はあるものの自分のことは自分でできるレベル(ADL自立という)の方が多い。90代でも癌の手術はするし、もちろん歩いて自宅退院して生活を続けていく方も少なくはない。

100歳超えていたって、足の骨折を手術してリハビリをして退院することもあります。今回は103歳で大腿骨を骨折して入院した女性のお話です。

もちろん「治療をするか、手術をするか」なんて年齢で区切るわけではありません。これまでの生活レベルや認知症の程度、治療や手術をすることのメリットとデメリットを考えて検討します。そこで大事なのは本人や家族の意志ですが昨日転んで足の骨を折るまでトイレに自分で行けていた人が、今日から寝たきりになるという選択をすることはないですよね。100年生きてきたから、もう痛い思いしたくないわぁ…って思う人は多いけれど、骨折して寝返りもできないほど痛いのだから何とかして~…と思う方が普通です。もちろん2週間も安静にしていれば骨折したままでも炎症が落ち着いて痛みも少なくなりますから、車いす生活レベルでいいなら手術をしないという選択もできます。

さて大腿骨の骨折で入院した103歳のKさん、物事をはっきり言う少し口の悪いおばあちゃん。娘さん2人は70代後半、家族仲はとても良いようですがそれぞれの生活を考えてKさんは有料老人ホームで生活していました。103歳でも認知機能はしっかりしていて、手押し車を使ってトイレにも行けていたそうです。本人も娘さんも手術をして、元の生活に近い状態に回復することを望みました。そして手術はうまくいき、大きな合併症もなく翌日からリハビリが開始されました。

痛いとか看護師が優しくないとかトイレが我慢できないとか鳥の餌みたいなご飯がおいしくないとか、いろいろ文句を言いながらもリハビリをしていたKさんですが、ある日突発的に発熱しました。軽い脱水から膀胱炎を起こしたようです。ご飯まずいお茶もまずいと食べる量が減っていたことが原因です。幸い点滴をして熱はすぐ下がりました。しかしその発熱を境にKさんの様子が変わっていきます。

もともと文句を言いながらも食べていた食事を、ほとんど食べません。車いすに座って食堂に行こうと言っても黙ってそっぽを向きます。まったく活気がなくいつもの文句も出てきません。夜暗い中、天井をじっと見つめていたりします(巡視の時ドキッとしました…)。脳障害をうたがって検査もしましたが、特に異常はありません。

家族の面会の前に「今日面会ですよ、良かったですね」と声をかけると「こなくていいのよ」。面会中も目をつむったままでした。

Kさんは何も言いません。文句すら言わなくなりました。会話ができないわけではないし、意識レベルが下がったわけでも認知症の周辺症状が悪化したわけでもなさそうです。まるで感情というものを捨て去ってしまったような、そんな印象です。食事も食べられないわけではないのに、食べるのをやめてしまったかのようです。

少し昔、私が大学病院で主任になったばかりのこと、20年位前のことです(少しサバ読み)。入院してきたある企業の会長のMさん、たしか80歳代だったと記憶しています。食事ができなくなって入院し、いろいろ検査をしましたがこれと言って原因になる病気はありません。大学病院ですからあの手この手で状態を良くしようとしますし、ご家族も治療を強く望まれていました。Mさんは食事はとらないものの、ほかの介護は素直に受けてくれます。食事を摂るためのベッドアップは拒否するもののシーツ交換をさせてくれというとスムーズに車いすに移ってくれます。私は看護師長に医師の見解や検査結果やバイタルサイン、本人の言葉と家族とのコミュニケーションの内容と、そしていわゆるアセスメントを「いかにもデキる主任」らしく報告をしましたが、本当のところ何もわかっていませんでした。

私の報告をきいた看護師長は、「Mさんはもう生きたくないのよ。ちゃんとした立場の人だから人に迷惑をかけることはしないでしょう。シーツ交換を拒否したら看護師に迷惑をかける、でも自分のためにはもう何もしたくないんだと思うの。Mさんがそういう気持ちになってる、もう生きたくないと思ってる、そういうことをご家族に話してみなさい」

バリバリの大学病院看護師だった私には、衝撃的な見解でした。どんな患者でも良くなることを目標に治療したり看護したりするものではないの?よくならないこともあるけれど、そこに向かって進むことが正義ではないの??生きたくない、もう終末を迎えたいと思っていると、どうやって家族に話したらいいの???

今思うと看護師の傲慢な考えに固まっていたと思います。食べられるなら食べるべき…病院で治療や看護を拒否するなんて…と。Mさんが本当に生きることをやめたいと思っているのかどうかわかりませんでした。でもそう思っているのかもしれないと、Mさんの気持ちに家族が、そして私たちが寄り添うきっかけになり、Mさんの希望通り自宅へ退院していきました。

さて、今回の103歳のKさん。病院での治療は終わり、食事できないのは本人の意欲の問題だけだから老人ホームに退院しましょうという事になりました。家族は納得できない部分もあるようですが、病院というKさんにとってストレスフルな環境より住み慣れた老人ホームで自由に過ごせるほうがいいでしょう。103歳のこれからの希はなんだろう。半分くらいしか生きていない(またまたサバ読み)自分たちには想像もつきませんが、文句を言ったいたころにもっとちゃんと聴いていればよかったと少し後悔しています。

もしかしたら老人ホームのご飯なら食べるかもしれません。病院の食事は鳥の餌だと言っていたのですから。いまごろ文句言いながらご飯を食べてくれていればいいなあ。

退院支援~自宅での生活は無理…って誰が決める?

高齢者が多く入院している地域密着型の病院で働いています。高齢者が病気やけがで入院すると、やはり何らかの退院支援が必要になります。入院した患者の生活背景や家族構成、介護者がいるのか介護力はあるのか、これまでの生活や介護保険の有無などなど、入院初期に情報をとり患者の病状や回復状況を見ながら退院支援を行っていきます。

少子高齢化が問題とされる中、当病院の患者ももちろん独居高齢者や老々介護の環境の方が多いです。老々介護というと高齢者ご夫婦という印象ですが、昨今は90歳代の父を介護する70歳代の息子という構成も珍しくなくなってきました。同居する家族がいても50歳代・60歳代はまだまだ働いている方が多く介護に力を入れられる家庭環境の方が少ないと感じます。病気やけがを機に、いよいよ施設入所を検討される方も増えてきました。

一方で、どうしても家に帰りたいと望む方も少なくありません。特に独居高齢者に多い印象です。これまで自分が好きなように生きてきた、今更不自由に過ごしたくないと思うのもわかります。

ある80歳代の独居の男性、脳梗塞で半身まひになり食事も特別形態食のものしか飲み込めません。生活保護で狭いアパートで生活しています。看護師もソーシャルワーカーも理学療法士も、そして区のケースワーカーも「いや、一人で生活無理でしょ」と思いつつも、患者は「俺は家に帰る、施設はいや」と言い張ります。そこで新規で担当になったケアマネージャーを含めカンファレンスして自宅に帰る道を模索しました。病院スタッフが生活困難と思っていても、介護サービスを組み合わせればイケるんじゃないかという結論になりなんとか退院しました。課題はあるけれど、やってみなければわからないし、何より自己決定能力がある限り決めるのはご本人。

また別の80歳代男性、もともと複数の癌があるものの治療で進行は抑えられ日常生活を送ることができていました。でもいつ再発するかわからない状態のなか、たまたま転んで腰椎圧迫骨折して入院、幸い症状は軽く数日で歩けるようになりました。独居でしたが少し離れて暮らす息子さんがいて、介護保険も利用しているのでケアマネもついています。その患者は癌のこともあるので、出来るだけ自由に生活したいから早く退院したいと言います。私たちもそうしてあげたいと、ご家族やケアマネに連絡しました。しかし、その返事はというとケアマネから「今回の転倒と腰の痛みのことを考えて、ベッドを入れようと思います。息子さんとも相談し、いろいろ心配なのでしばらく入院させてください。ベッドを入れるのにも一か月くらいかかります」・・・いやいや、ベッド入れるのに1日あればできるでしょ。心配だから入院長引かせるって、本人の意思はどうなのよ・・・と思っていたら案の定ご本人が「なんで俺の生活を、息子と赤の他人(ケアマネ)が決めてるんだ~!!!ふざけるな、明日退院する!」と激怒。無事2日後に退院できました。

退院支援の要は、意思決定支援といえます。一番はご本人の意思が大事ですが、社会の中では家族という単位で生活しているので家族も含めた意思決定支援でなくてはいけません。意思決定には十分な情報が必要です。病状や予後の予測、どんな医療や介護が必要になるのかなど専門的な視点でお話しし、よく考えてもらう必要があります。

在宅介護のことを十分に理解できていない看護師が「え~一人暮らし無理でしょ」と決めつけてはいけません。患者の気持ちや病気のことをよく理解できていないケアマネが「すこしでも長く病院にいる方が安心」と思ってもいけません。決めつけずに、よく患者や家族と話し合ってみましょう。その人の人生なのですから。

退院支援~高齢者が怪我をするという事

高齢者の多い地域密着型の病院の急性期病棟で働いています。病院には医療連携室がありますが、退院支援に専任する看護師はいないので病棟看護師が退院支援の中心です。日替わり担当の中、チームワークで患者や家族、ケアマネージャーとやり取りをして患者が地域社会に帰れるようかかわっています。

入院してくる高齢者は、脳梗塞や誤嚥性肺炎、腰痛で動けなくなった人、転倒して骨折した人…つまり歳を重ねて何かしら体の機能が落ちてきたことに由来するものが多いのです。まあ、病気というものの多くは加齢や生活に由来することが多いものですが、高齢になるとちょっとしたきっかけで病気や障害が起こりやすい。

しかし誰でもそうだと思うけど、年を取ってきたことは自覚していても、まだ大丈夫でしょう、もう少し元気でいられるでしょうと思っているので介護の準備なんてしていな人がほとんど。「もう私だって年なのよ、そのうちお世話になるかもね。まあ、あと何年こうやって歩けるかしらね、ホッホッホ」と言ったそばから転んで足を骨折して救急搬送。歩けなくなるのはあと何年ではなく、次の瞬間だったりする。今は100歳のおばあちゃんでも希望があれば手術をする時代、骨折して運ばれたおばあちゃんは必至でリハビリしつつも、なかなか骨折や手術の衝撃と数日といえど寝たきり期間のおかげでトイレに行くのもままならない。

でも患者の家族の多くはこう言います。「歩けるようになってもらわないと困る」「入院する前と同じに戻ってもらわないと困る」

わかります。確かに急に介護が必要と言われても困るでしょう。でも、本来急なことではないんです。「たまたま転んで骨折した、それまでは普通に暮らしていたんだから、手術して元に戻してくださいよ」…たまたま転んだんではなく、転びやすいほど体力は落ちていたんです。普通に暮らすのも歳を重ねれば難しくなります。入院しても手術しても日々歳をとるんです、元に戻ることは難しいのです…急に歳を取って転んだかのように受け止めて、手術したら転ぶ前の若さに戻るかのように要望する。でもその気持ちはわかります。そんな不幸なことが自分や家族の身に、今、起こるなんて思って暮らしていないですから。いつかはあるかもっていうくらいには思っていても。

70歳になろうと80歳になろうと、元気なうちから介護を受ける準備をしていない人がほとんどで、たいていの人は介護保険をどうやって利用したらいいか知らないことが多い。高齢者が骨折して入院した場合、私たちはその入院の手続きの日に「治療しても元の体力に戻れないことが多いので、入院中に介護の準備をしておいてください」と説明します。介護保険は申請してから使用できるようになるまで一か月かかります。患者がリハビリを頑張って、結果介護が必要なくなっても、介護の準備をすることは無駄にはなりません。どうせいつかは必要になるのですから。

でも、できるなら元気なうちから高齢者支援センターなどの機関に相談に言っておくことが望ましいです。特に単身高齢者や高齢者夫婦のかたは、何かあった時にすぐ相談できる準備をしておくのが安心です。離れて暮らすご家族がいる場合も同様です。

なかなか自分が高齢者であることを自覚するのは難しいですけどね。

在宅看護~みかんの木のある家の記憶

私が訪問診療クリニックで働いていた時の思い出です。

もっと在宅医療にかかわりたいと思わせてくれた経験であり、訪問ナースとしてやっていきたいというモチベーションの土台です。

訪問診療クリニックでの看護師の役割はクリニックそれぞれで違うものですが、私は看護師兼コーディネーターとして病院や地域医療関係者との連携業務を行っていました。訪問診療に申し込まれた患者さんのご自宅に最初に伺って、訪問診療を開始する手続きなども行います。

ある10月の初めに、連携している病院から在宅に帰った患者さんの紹介がありました。70代の女性である癌の末期とのこと。訪問してみると笑顔が素敵な明るいご夫婦で、奥様が癌になり手術や抗がん剤治療など一通り頑張ってきたけれど、もうできることがないからご自宅で過ごしなさいと言われ訪問診療を紹介されたそうです。そんな話をご夫婦とも明るく話していて、もちろん普通に動くこともできていて…本当に末期?訪問診療が必要?と思いながらも訪問診療の契約を行いました。

お宅の庭にみかんの木がありました。いつもその木の下に訪問車を止めていました。訪問を開始した10月はまだまだ実が青かったのですが、11月、12月と少しずつ熟していきます。12月のはじめに「まだ酸っぱいけど」とご主人が数個のみかんをもいでくれました。本当に酸っぱくて…

その酸っぱいみかんをいただいたころには、奥様は食事がとれなくなっていて、ほぼ毎日自宅で点滴をするようになっていました。痛みには麻薬を使っています。居間の真ん中にお布団を敷いて一日中横になっていました。トイレやお風呂はご主人が担ぐようにしてお手伝いしています。そのころには離れて暮らしていた娘さんがお子さんを連れて連日泊まりに来ていました。ご主人と娘さんも明るい方たちで、居間で寝ている奥様を中心にしながらいつもの生活を送っているという感じでした。奥様は意識がしっかりしていたので、ときどき「迷惑をかけるから病院に入院した方がいいんじゃないか」「不安になってくるの」と訴えてきます。そういうとご主人は「だめだ、入院したら顔が見れなくて俺が心細いから」と言います。「夜中に急にうどん食べたいっていう事があるだろ?ちょっとしか食べられなくても俺が作ってやれるだろ。食べたい時に食べて、眠い時に寝て、病院じゃそういうわけにいかないんだから」と心強い言葉で奥様を支えていました。

そんなご主人や娘さんはというと、訪問を終えて帰る私を見送りに外にでてから「これからどうなる?急に具合悪くなったら、救急車を呼べばいいのか?」と、やはり不安を訴えます。車を置いたみかんの木の下で、ご主人や娘さんの気持ちを聴きながら、予測されるであろう経過をお伝えします。苦しむのだろうか、いよいよの時はどうしたらいいのか、自分たちはどうしたらいいのか・・・そして結論は「最後まで看てあげたい。近くにいたい」という一番の願いをかなえていこうというところに至ります。

揺れ動きながら、不安を抱えながら、みかんの実が甘くなる12月の末に奥様は自宅で息を引き取りました。数日前から朦朧としてる、もう何も口にしない、昨日から呼吸がゆっくりになってる、もう返事をしない…など連絡が来ました。時間を作っては訪問に行き、もう間もないであろうことをお話しして心の準備ができるようお手伝いしました。そして娘さんから涙声で「今ね…呼吸が止まったみたい」という連絡。「これから伺いますが、慌てずにそばにいてあげてください」と伝えお看取りに行きました。

ご主人が意識のない奥様の手を握りながら、娘さんやお孫さんといつものように口喧嘩をして笑いあっている中、ふと見ると呼吸をしていなかったそうです。でもそのお顔は、にぎやかな家族の声の中で微笑んでいるようだったそうです。

生き方も逝き方も人それぞれで、家で最期を迎えたい人もいれば不安や家族の負担を考えて病院で過ごす人もいるでしょう。その過程の中で揺れ動いたり、不安が大きくなったり、パニックになることもあります。自宅で過ごすという決意を持っていても、その決意を後悔することもあれば「本当にこれでいいのか?間違っていないか?」と思い悩むすることもあります。そしてどんな逝き方であっても後悔は残るものです。でも「お母さんったら、笑いながら逝っちゃったよ」と、これも泣き笑いしながら話す娘さんをみて、その人らしさやその家族らしさを支えられたのかなと思いました。

病院ではなく、在宅や施設で最期を迎えることも増えています。しかしどこで最期を迎えようと、ご本人や看取る方たちができるだけ納得できることが大切で、その支援が私たちの仕事だと思っています。