認知症の初期?道迷いのおじいちゃん

道迷いのおじいちゃんに遭遇

先日ご近所を歩いていたら、すれ違うおじいちゃんに声をかけられました。

「ここはどこですか?家に帰ろうと思うんですが、通り過ぎちゃったのかな」と。

お話を聞いてみると、A駅の近くで買い物をして、B町にある自宅に帰るはずが道を間違えたのか知らない場所に来てしまったとのこと。私と遭遇したここC地点は、A駅からB町を超えておよそ2倍は歩いたであろう場所。たぶんお家を通り越して進んでしまい、道に迷ったのでしょう。「私のうちはね、B町3丁目の2なんです。サ⚪︎ダと言います」。

東京23区内なので、大抵の住所には何丁目何番地何号まで住所があります。

B町3丁目の2番ですね、その次は?・・・「サ⚪︎ダです」。・・・あれ?

B町3丁目の2、サ⚪︎ダ。それ以上の情報が出てこない。

身なりはきちんとしていて買い物袋も持っている。会話も比較的普通にできる。だがこれは、ただの道迷いではないらしい。それほど距離も遠くないし、タクシーが走っている場所でもない。幸いサ⚪︎ダさんは歩けている(若い頃はゴルフで鍛えたのだそうです)。B町3丁目2まで行けば、自宅の近くまで行けばわかるだろうと、一緒にB町3丁目の2を目指した。

結果は…そこにサ⚪︎ダさんの知っている景色はなく、「B町3丁目なんですよ、ここじゃないと思うんだけど・・・おかしいなあ」。住所の記憶は曖昧だったわけですね。サ⚪︎ダさんいわく、引っ越してきてまだ2年くらいなのでよく道に迷うのだとか。電話番号も引っ越してきたばかりでわからないのだとか。

結局辿り着けそうにないと思い、近くの交番に送り届けて事情をお話しし、あとはお巡りさんに託しました。

認知機能が低下してきた高齢者を守るには

認知機能の低下を早めにキャッチして、受診をしたり、生活環境を整えたりすることが大切です。でもはっきりと症状が出ないと受診のきっかけも難しい。だから、見守る目を増やすことって大事じゃないかなと思います。保護が必要な子供は、安心して自立するまではたくさん保護されていて、たくさんの目で見守られている。小さな子供が一人で出歩いていたらみんな気に留めますよね。でも、高齢者の場合はその逆で、だんだん保護が必要になってきます。助けが必要かどうか判断するのは難しいけれど、見守る目を増やすことはできると思います。高齢者なりの社会性やコミュニティを大事にしていくことはそのひとつ。知っている顔が多ければ挨拶もするし、気に留めてくれる人もいる。

道を歩いていても知らない人なら挨拶をすることもない都会の真ん中。ならば知っている人を一人でも増やしておく。あれ、様子がおかしいな?と、気づいていくれる人を増やしておく。ご近所の人もですが、高齢者が一人でいる時間を増やさないコミュニティ作り、そんなことが大事じゃないかな…と思いました。

「あれ?」と気付ける人になる

ご近所付き合いとか、コミュニティとか大事だと思います。でも24時間誰かが見ているわけにもいかないし、高齢者だって自由に外を歩きたいでしょう。

私の実家は東北のど田舎。村の人は皆顔見知りで、認知症のケがある梅バア(仮名)が家を出て歩いていると、気付いた近所の奥さんがまず「どこにいくの?」と声をかけます。梅バアは「はたけ」と答えると、近所の奥さんは畑の近くの奥さんに電話します。「梅バアがそっちにいくと思うから、見といて〜」。

サ⚪︎ダさんは普通に歩いていたので、私もそのまますれ違うところでした。ふと目が合った時、声をかけられたのです。声をかけてくれてよかった〜と思いました。田舎の奥さんのようにはいかなくても、あれ、大丈夫かな?と気に掛ける人が増えれば、それは一つの見守る目になりますよね。

若いころゴルフで鍛えたと言うサ⚪️ダさんの脚は、結構フラフラしていました。途中坂道は腕をとって介助しちゃいました。たぶん1時間は歩いていたでしょう。こうやって高齢者が転んで骨折するのか、とか、暑い日だったら熱中症で倒れただろうな、とか予測できます。声をかけてくれたから助けてあげられました(一応助けたつもり)。

過去にもおばあちゃんを保護したことがあります。真冬の夜9時くらい、パジャマに半纏を羽織って歩いているおばあちゃんが気になって、振り返ってみていたらキョロキョロしている。「どうしたんですか?」と声をかけたら「〇〇2丁目はどちらですか?」と。「ここが〇〇2丁目ですよ、どこまで行きたいんですか?」と聞くと「おうちです」と笑顔。もちろんすぐお巡りさん呼んで保護してもらいました。

高齢化社会、予防そして「準備」

高齢化社会、25年問題、健康寿命を伸ばそうといろいろな取り組みがされています。病気を予防し、寝たきりにならないよう運動を推奨したり、とても大事なことだと思います。

でも一方で、必ず歳をとり、歳を取れば体も脳も機能は低下していきます。健康でいるために、介護を必要としないために予防することはとても大事。それでも一生バリバリに元気でいられないのなら「準備」することも大事だと思います。認知機能が低下して生活に支障が出るかもしれない。それならコミュニティへの参加や近所付き合い、見守りサービスの検討や、地域包括への相談など、見守る目を増やしておくことはその準備の一つだと思います。道に迷い歩き続けることは、まだ徘徊とは言わないでしょう。でも徘徊するようになってからでは、ますます対応が難しくなります。

まだ大丈夫、という高齢者は多いでしょう。まだ大丈夫、でもいつかは必要、準備しておこうという心構えでいかがでしょうか。

訪問看護ステーション開業して5日間

5日間していたこと

当然のことながらまだ利用者さんはいません。ひたすら営業の日々。対応する地域の包括支援センター、居宅介護支援事業所、主要病院の医療連携室などなど。あとは同じ地域の訪問看護ステーションにもご挨拶に行きます。

私たちの地域は居宅介護支援事業所が100件以上・・・名刺とパンフレットを手にケアマネージャーさんへご挨拶。事業所やケアマネージャーさんは色々な方がいて、「はい、ご苦労様」とご挨拶を受けてくださる方がほとんどですが、ちゃんと受け止めてくださる方からはこんな反応をいただく事が多いです。「で、強みは?」「ウリはなんですか?」

関心を持ってくださるのは本当にありがたい、けれど強み、つよみ、ツヨミ・・・やる気だけじゃダメですよね。元気さも自転車こいでだいぶヘトヘトだし。なんとか笑顔で誤魔化すけれど、誤魔化されないですよね〜

とりあえず短い会話でも、少しでも覚えてもらう事が大事。認知して貰わないと始まらない。そして会話の中で、ケアマネさんたちの要望も汲み取れる。

「リハビリスタッフはいますか?」「どちらの医療機関とつながっていますか?」

あるケアマネさんからは「病院ではなく訪問診療とか在宅をやっているところとつながってないと…」とも言われました。でもそういった要望やご意見をしっかりキャッチしていく事、そして対応していく努力も大事だと思います。しっかりコミュニケーションをとっていかなくちゃ。

もう一つの課題、求人

新規のステーションの存在をアピールする目的はもう一つ。共に働くスタッフを集めること。前に投稿した通り、指定訪問看護事業所になるためには人員基準を満たしている必要があるので、立ち上げから一緒にやってくれているバディの他に、知り合いのナースさんがパートで手伝ってくれています。でも今後安定して、いや、発展していくためには常勤のスタッフを増やしたい。そしてケアマネさんたちの要望にあるようにリハビリスタッフも一緒にやってもらいたい。あとは強み、つまり専門性ですよね。とにかくスタッフは必要なので、求人活動大事。

いろんなアドバイスをもらって、まずGoogleプロフィールを作り、ホームページを作り、インスタ投稿をし・・・とにかくアピールを、と思うのですが、なんとも垢抜けない。これもなんとかしなくちゃ。

とにかくすごい営業電話

少し話はそれますが、その垢抜けないHPによってくる人たちがいます。初日は特に凄かった営業電話。「そちらの素敵なホームページ拝見しました〜」から始まり、訪問看護を必要としている人たちを紹介するだの、求人する効果的な方法を伝授するだのと言ってくださる。そもそも「素敵なホームページ」というところから嘘っぽいので信用しないのだが、きっと垢抜けないド素人のホームページ作ってるところだからカモりやすいと思っているに違いない。頑張って話をかわし電話を切る。やはりそこそこのクォリティは必要なのね。

脚のチカラとSNSのチカラ

現代の武器、SNS。フォロアー増やすって結構大変。知り合いや、元の職場の仲間はステーション立ち上げを応援してくれている。そんな仲間にインスタはじめたよ〜とLINEしまくるものの、インスタやってないのよ〜という人も少なくない。やってるけどあんまり見てくれない。年代の問題かな〜トホホ(←これも昭和)

なかなか面白い投稿も難しい、そもそも魅力的な職場と思ってもらうには何をアピールしたら良いものか。悩む日々だけど、こうやって綴っているブログも少しは読者がいるので、挫けずに続けていこうと思う。

そしてやはり昭和の人間だから、脚の力も信じている。脚で稼ぐのは刑事だけじゃない。

高い専門性はないけど、親しみやすさはある。話しやすさや頼みやすさもアピールポイント。そして顔を合わせてみないと印象付けられない。求人はSNSのチカラが大事だと思うけど、営業はやはり顔を合わせてナンボ。

ある居宅支援事業所の前で、同じように地図を片手に営業している方と鉢合わせました。その方は地域でも割と大きな訪問看護ステーションで活躍されたあと、今は他のステーションの建て直しや新規利用者獲得のためのアドバイザーをされているとのこと。その方も言ってました「とにかく営業よ!」と。そしてもちろんお互いも名刺交換をしあい、エールを送って別れました。大先輩にお会いできてとてもラッキー。

そして営業活動でもうひとつ発見がありました。それは今の事務所を仲介してくれた不動産屋さん。大手の不動産会社ではなく、地元の不動産屋さんで高齢者が多い地域だから入居者さんのことをなんだかんだと見守ったり世話したりしているそう。不動産屋さんに開業のご挨拶に行ったら、喜んでくださっただけでなく訪問看護に関心を持ってくださり、訪問看護が必要そうな高齢者がいるから声をかけてみようか?とも言ってくださり。

ああ、地域と繋がるってこういうことなのかな〜と実感。まだまだこれから、いっぱい地域と繋がるために脚を棒どころか丸太にして頑張ろう。丸太じゃ自転車こげないけど。

嵐(?)の前の穏やかな春の一日

3月31日日曜日。明日からのステーション開業前の穏やかな春の一日を、家でのんびり過ごしました。のんびりと言っても、せっかくの良いお天気、いつもの時間に起きて、掃除してお布団干して洗濯して洗濯して洗濯して・・・

ステーション開設のために借りた事務所にほぼ毎日かよって、土日は年末退職した病院に日勤のバイトに行って、全然ゆっくりする暇が無かったですね。ちょうど冬物を片付けたりするのに良いタイミングで何クールも洗濯機に働いてもらいました。

春の穏やかな外の風に、うちのニャンコたちも気持ちよさそうです。

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ニャンコたちはボスが朝からずっと家にいて、掃除機かけたり出たり入ったり、いつもくつろいでいる布団を取り上げられたりしたのでペースが崩れた模様。お昼寝できなかったので、今夜は静かに寝てくれそうです。

明日から、慌ただしく走り回る毎日になるのかどうかは自分たち次第。どんな状況になるかは自分たち次第。どんな仕事場にできるかは、これからの私たち次第。責任の重さがありがたいとも思えるほど、ワクワクドキドキ。

そんなことを実感しながら、お日様と春風とニャンコたちからエネルギーチャージをさせてもらった穏やかな一日。とても良い一日。

さあ、頑張るぞ。

訪問看護ステーション、4月から開業します!

訪問看護ステーションの申請が通りました

いよいよ新年度ですね。昨年末から訪問看護ステーションの新規開業に向けて手探りで右往左往しながら準備をしてきました。前回の「開業まであと少し」で投稿した通り、3月22日時点ではまだ指定をいただいていませんでした。結果が届き指定を受けられたのは3月26日。申請書が受付されてからちょうど一か月です。

ほぼ大丈夫だろうとは思っていました。だって、直前まで何の連絡もないまま4月からの開業は無理ですよ~とはならないでしょう。だめなら早い段階で訂正案をいただけるはずだし、悪い知らせがないからきっと大丈夫…と思ってはいても!内心ハラハラモヤモヤの日々、そして郵便受けを1日何回ものぞく日々でした。

どのあたりが大変だったか

会社を設立する、法人としての口座開設やもろもろの契約をする、事務所を借りて拠点を作る。いろいろ知らないことが多いけれど、調べながら進めていけばひとつづつクリアしていける事柄です。あとは資金があればそれなりに解決していくことでもあると思います(資金はギリギリでしたが…)。

一番大事だと感じるのは、あくまで自分の感覚ですが、やはり「何をしたいのか・どうしてしたいのか・どうなりたいのか」を明らかにしていくことだと思いました。

正直、在宅やりたいし~病院勤務ももうあきたし~年取ってもこき使われてるの嫌だし~でも働かないと食べていけないし~・・・という気持ちも根底にはありました。もとい、今でもある。言い方を変えれば「もう看護師として働けるのもあと数年、残された看護師人生を悔いなく過ごしていくにはどうするか」になります。・・・本音は最初の〇〇だしぃ~のほう。

でもそれだけではステーションを開設しても続かない。動機や考えが甘いというのももちろんですが、自分が何をしたいのか、きちんと言葉にして発信しないと「人の心が動かない」からだと思います。訪問看護ステーションは人に対して人がサービスを提供する仕事です。私たちが提供するサービス=価値は何なのかが伝わらなければ、受け手の人の心は動きません。

もう一つ動かしたい「人の心」は

もちろん働く仲間です。働く仲間も「何をしたいのか・どうしてしたいのか・どうなりたいのか」をつたえなければ心を動かしてくれません。働く仲間というのはステーションのスタッフであり、連携する医療機関のスタッフであり、地域医療介護を支えるケアマネージャーであり、もっと広く見ると医療介護以外で支援したり見守ったりしている地域の人々です。

その中でもステーションのスタッフの確保はとても大変なことだと実感。まず指定申請するためには人員基準を満たしてなくてはいけません。これって、ものすごく大変なことだと思いませんか?これから準備して、指定を受けられないと開業できないという状況で働く人を確保するんですよ!?平たく言えば、働く場所ができるかまだ予定だけど雇用契約してね、ということです。当然ながら、指定を受ける前の状態では募集活動もできません。新規で訪問看護ステーションを立ち上げる多くの方は、自分の力で立ち上げスタッフを見つけて協力を求めて契約するのです。・・・これも資金がたくさんなら、もっとほかの方法があるのでしょうけれどね・・・

幸い、自分の周りで一緒に働いてくれるという仲間が見つかり開業にたどり着きました。でもこれから安定してサービスを提供しつづけるためには、もっと仲間が必要です。求人活動にはお金もかかるでしょうけれど、やはり今いるスタッフに続けてもらえること、新しいスタッフに来てもらえることに必要なのは「人の心」を動かせないといけない。そのためには、繰り返すけれど「何をしたいのか・どうしてしたいのか・どうなりたいのか」という軸をしっかり持つことかなと思います。

一年くらい前は、ふんわりと「訪看ステーションでもつくろうかな~」と軽率だった私に喝を入れたい。でもそれから頑張ってここまで考えられるようになった私にはナデナデしてあげよう(自画自賛)。

開業まであと少しです

指定の申請

訪問看護ステーションを始めようと思って、場所が決まるまでだいぶドタバタがありました。1月の後半に入居することができ、さて2月の初めには申請書を送付しなければなりません。事業開始予定のどのくらい前までに申請書を送るのかは、自治体によって違うようです。他県に住む知人は、訪問看護ステーションを開業しようと思い立ってから2週間で申請手続きを終えたというツワモノでしたが。

東京都の場合、開業予定月の3ヶ月前に申請前セミナーの受講があります。そのセミナーの申し込みはさらに前月の月末までです。つまり4月1日に開業しようと思ったら、12月末までにセミナーを申し込み、1月にセミナーを受講し、2月中頃までに申請書を送付するという段取りになります。

12月の時点では事務所の物件も決まっていないので受講手続きするべきか悩みましたが、少しでも先に進もうという気持ちでやれることはやっておこうと思いました。もしセミナーを受けたのに開業準備が進んでいなかったとしても、大した問題じゃないと腹を括って正解でした。前に投稿した通り、1月初めに幸運の物件にあたりギリギリ入居できたのですから。

指定申請に必要なもの、その1…「場所」と「什器」と「通信」

訪問看護ステーションとして機能できるための設備として、事務をする場所・事務用の机と椅子・個人情報を取り扱うので鍵付きの書庫・固定電話とFAXは必須です。広さの規定はありませんが、利用者さんなどと面談するための部屋(もしくはパーテーションで区切ったスペース)が必要なので、結局そこそこの広さは求められます。あと必須なのが「手を洗う場所」で、独立洗面台が望ましいです。水場がキッチンだけの場合、手洗い場所として使用しても良いけど、その場合はキッチンとして使ってはいけないという決まりがありました。ご飯は作らないとしても、コップなんかは洗いたいですよね・・・やっぱり洗面台は必要。あと、トイレとバスが一体になっているユニットバスの洗面台はNGだそうです。

契約したい物件が、事業所として適しているか事前に確認するのはとても大事です。契約してからNGだったでは遅いですよね。指定申請の相談窓口では、その物件で大丈夫かどうかを事前に相談することができます。これは必ず相談しておいた方が良いと思います。

鍵付き書庫、これも必須アイテム。そして置き場所も重要で、相談者さんが通る場所とか見える場所とかに設置してはいけない。事務所の中のレイアウトも重要です。やはりここでも広さが必要になってくる。そして扉が透明なガラスの場合は目隠しも必要。結構厳重なんです。「訪問看護ステーションって、ワンルームのアパートなんかでもいいんだよ」とはよく聞きますが、そうもいかないなと実感。

そして固定電話とFAX。指定申請には番号を取得しておかなければならない。これも結構ギリギリでした。FAXはeFAXにすればもっと早かったけれど、FAXだけ先に取得しても仕方ないし、結局一緒に2回線申し込んだ方がいろんな手間が少なく済むので、効率を優先しちゃいました。eFAXの方がペーパーじゃなくでPDF保存できるのでよかったんですけどね。まあ、後から変えられるからヨシとしました。

指定申請に必要なもの、その2…私たちが行うことの明文化

当然のことながら、私たちが行なっていく事業の詳細を明文化しなければなりません。運営規程、どこで何を行なってどのくらい報酬を得るのか。サービス提供においてそのサービスをどう保証するのか…みたいな。

なかなか手強かったのは、やはり「加算」と「料金」で、なんでこんない複雑なんだいとボヤきながら作成。介護保険にしろ医療保険にしろ、私たち国民が日頃汗水垂らして働いで収めている保険料を使うのだから当然なんだろうと自分を納得させて取り組みました。一個一個の加算の意味とか要件とか調べて、おかげで理解して作成することが出来た…と…思います………。

指定申請に必要なもの、その3…働くスタッフ

ご存知の通り、常勤換算2.5人、うち常勤1人のスタッフが必要です。一緒に働くと言ってくれたバディがいるので、あと少なくても0.5人いれば大丈夫…じゃあなかった!!準備に当たってずっと常勤換算2.5人、私がいてバディがいて大丈夫と思っていたら、管理者である私は管理業務と時間を按分しなければならないので1人にならない。まずい、非常にまずい。

幸い、知人ナースがパートで働くと言ってくれて、0.5人を確保していたので心に余裕を持っていました。しかし、私が時間按分する以上あと0.5人分を確保しなければならない。そのことに気づいたのは申請書を作り始めた1月末、それまで参考にしていた本やらネットの検索では管理業務との按分なんて書いてなかったハズ…でも見落としていたのかな…もうだめかな…

でもそこは、自分が働いていた病院の近くに開業しようとする強み、助けてくれる女神様はいるものです。本当にこの場所で、人脈を作れて良かったです。ちなみに、管理者が常勤スタッフ1人になるか、管理業務と按分なのかは自治体によって違うようです。他県の知り合いナースは「私管理者だけど1人に入るよ」と言っていました。

ということで働くスタッフも確保でき申請書類は完成しました。申請書類を最初に送ったのはこれもまたギリギリ2月15日、数日後に修正箇所の連絡をいただき提出し直すこと数回。自分でもしっかり見たつもりが、誤字脱字があったり、料金の計算が間違っていたり。申請書を確認してくださった方、本当に丁寧に見ていただきありがとうございました。そして2月27日に申請を受け付けていただき、今3月下旬ですが審査していただいている最中。4月1日開業できるかどうかは3月下旬にならないとわからない。けれど、たとえ3月31日に審査結果が出たとして、4月1日にはサービス提供できるよう準備をしていなければならない。

サービス提供して保険請求するって大変なこと。やはり、私たち国民が汗水垂らして収めた保険料は、貴重なお金なのです。

その看護目標は正しいのか、あるいは・・・

訪問看護ステーション立ち上げの過程を綴りたいのですが、大学病院時代の印象に残る患者さんのことを思い出しました。ちょっと横道かもしれません。

予後宣告されたFさんの本当の希望

大学病院時代に入院されていたFさんとそのご家族、そして私たち医療従事者の話。

Fさんは80歳代、腹部の癌で予後半年から1年と宣告されていました。非常に穏やかで真面目な性格の方で、怒るとか興奮するとかいうことが全くない方でした。自宅療養をしていたのですが、少しずつ食欲が落ちてきていたそうです。Fさんは以前脳梗塞になった後遺症で、嚥下障害が少しありました。それでも体力のあるうちは普通に食事が摂れていたのですが、癌で体力が落ちてくると嚥下機能も弱まってきて、耳鼻科で治療を受けることにしたそうです。

嚥下機能改善の手術をして、よくなったら家で過ごす。短期間の入院の予定でしたが、なかなか思うように治療の効果が得られません。手術をして、数日おいて嚥下の評価をする。機能改善がないのでまた手術の予定を立てる、手術をする、評価をする・・・確か3回ほど手術をしたと思います。食事を摂れないし癌末期でもあり、徐々に体力が落ちていきます。

まだ入院を継続して治療をしていく必要があるのか・・・私は疑問というか違和感を覚えました。病棟カンファレンスをしても「Fさんののぞみは食べられるようになること」「それはFさんの最後の希望」と。医師とも話しますが医師も「だって、Fさんは希望しているよ」「希望している限り、何とかしてあげたいよね。手術の効果は期待できないけど」

Fさんも穏やかに「先生にお任せします」と言います。奥様と娘さんは毎日面会に来ていましたが「先生も皆さんも良くしてくださって」「本人が食べられるようになりたいというのでね、無理言ってすみません」と言います。

院内退院支援のチームのカンファレンスでも「本人の希望なら仕方ないよね」

看護目標は「Fさんの希望通り食事が摂取できるようになる」「食事が摂取できるようになって自宅で療養できる」という内容だったと思います。

癌で予後半年、食欲も落ちてきた。けれどせめて少しでも家で奥さんの食事を摂って穏やかに過ごしたい。飲みこみにくさが改善したら、残された時間を家で過ごせる。そんな望みで治療を受けるために入院したのに思うように効果が得られないまま時間だけが過ぎていき、Fさんの体力は目に見えて落ちていく。カンファレンスで話した内容も、医師の見解も、何もおかしくないのだけど、何か違うんじゃないか・・・。

ある日の奥様と娘さんの面会時にお話をしてみました。Fさんと同じように穏やかで気遣いのあるご家族です。Fさんの今日の様子や今後の手術の検討など話をしながら、奥様と娘さんの不安げなというか悲しげなというかを感じていました。そして、ふと思ったことを口にしてみます。

「もう手術しないで、家に帰るという選択をしてもいいんじゃないですか?」

奥さんと娘さんは、急に大粒の涙を流して泣き崩れます。その理由は「そうしてもいいんですか?」「本当は誰かにそう言って欲しかった!」と。患者のわがままを聞いて一生懸命治療をしてくださっている先生に申し訳ない、皆さんよくやってくれて、また手術頑張りましょうと言ってくれて、申し訳ない。でもどんどん痩せていって、もう長くないのに、どうなっちゃうんだろう・・・。そう思っていたそうです、でも口に出していうことはできなかったそうです。というか、そう思っていることに気づいてもいなかったのかもしれません。

担当医師にも奥様と娘さんの気持ちをお伝えしました。それはきっと、Fさん本人の気持ちでもあると思ったからです。医師も少しホッとしたようでした。手術を繰り返しても効果は得られない、でもFさんの希望がある限りは・・・」と思っていたそうです。

Fさんもご家族も、医師も看護師も、誰かが誰かの思いを大事にしようとしていたことは確かです。でもグルグル回っているだけで、Fさんの本心が見えなくなっていた感じでしょうか。

最後まで希望を持ち続けることが、とても大事だと言われます。でも希望って何でしょう。最後を迎える日まで一日でも長く元気でいることでしょうか。自分らしく暮らしていくことでしょうか。Fさんの希望は残された時間を家で過ごすことであって、嚥下機能を改善して食べられるようになることは手段でした。でもいつしかその手段が目標のようになっていたのだと思います。Fさんご家族の他人への気遣い、医師や看護師への感謝の気持ちなどが本当の希望に蓋をしてしまっていたのかもしれません。

私が私らしく生きていくとしたら・・・死ぬ瞬間まで食にこだわり、美味しいものを口にして逝くというのも魅力的かも。

訪問ナースまでのわたしの軌跡を振り返ってみる

四半世紀以上の大学病院勤務

驚かれますが、私は新人ナースとして入職してから26年ものあいだ大学病院で勤務した後スッパリ辞めました。もちろん四半世紀どころか生涯大学病院勤務の人も多くいらっしゃるので、決して26年間勤めたというのは珍しいことではないと思います。が、皆さんが驚くのは、きっとそれだけ長い間大学病院にいて、なぜその歳になってなって辞めたの⁉︎ということでしょう。

正直、辞めた理由はたくさんあるのだけど、一言で言えば「新しい景色を見たくなった」といことのような気がします。新しい景色をみるというより、新しい景色の中で暮らしたくなったという事かな。

新しい景色がどんな景色で、どこにあって、ちゃんとそこに行けるのかもわからない漠然とした状態でしたが、やはり勢いというか人生のタイミングというか、ただの暴走というか…笑。残りの看護師人生をもっと楽しむためには、まだ頭も体も元気なうちに動こうと思った次第です。

初めて在宅療養に関わったのは

慢性呼吸不全の患者へのHOT(在宅酸素療法)が保険適用になり、私の勤める大学病院の内科でもHOT導入に向けた患者教育などに力を入れるようになりました。その時の師長が進めたのが、導入後の患者さんへの訪問看護です。でもその訪問看護を行うのは、なんと導入指導した「病棟看護師」。なぜ病棟看護師が訪問看護を行うのか。病棟勤務中に病棟の仕事を抜けて訪問するなんて。・・・正直、今でも疑問です。もちろんその当時も賛否両論で、とりあえずやってみようという感じでした。結局定着することなく数年で終了することになりましたが、このHOT導入患者の退院後訪問を行なったのが原点になったと思います。

患者さんのご家庭に伺って、酸素をしながら家族と共に療養生活を見て、生き生きとした表情や様子を見て、私の「患者さん」の見方はすっかり変わりました。「患者さんの背景を見て…」とか「全人的に捉えて」とか学生の頃から勉強してきました。わかっていたつもりでしたが、本当はわかっていませんでした。

患者さんではなく社会の中で生活している人

病院の白い壁をバックにパジャマを着てベッドにいるAさんは、本当は自宅の居間で子供に笑顔を向けているお父さんでした。

病院の白い壁をバックにパジャマを着てベッドにいるBさんは、本当はコタツでおばあちゃんと一緒にお茶を飲んでいるおじいちゃんでした。

病院の白い壁をバックにパジャマを着ているCさんは、上げ膳据え膳の病院とは違って、ご飯を作って「お昼ご飯、食べていきなさいよ」と世話好きのおばさんでした。

表現するなら、それまでは病院の白い壁とパジャマの背景しか見えていなかったのが、その人を囲む背景に色がついて、まわりに家族が見えてくる感覚。そんなの当たり前でしょう、それまで患者をなんだと思ってきたのよ?と、突っ込みたくなる方もいるかもしれません。自分でもそう思います。自分では理解していたつもり、出来ていたつもり、看護してきたつもり…全然足りなかったなあ。

この体験がきっかけで、私の看護は変わったと思います。そこは自信を持って言えます。自画自賛になるのでこれ以上の主張は控えますが。

退院支援を行う中で、着々と在宅看護への思いは育つ

大学病院では入退院支援にも力を入れていました。退院支援をするなかで患者やご家族の思いを聞いたり、どう生活していくか考えたりしていく中で着々と私の思いも在宅看護の方向に傾いていきました。

退院支援の研修の一環で、訪問診療クリニックの体験実習に行かせてもらった時のことです。その訪問診療の先生の「孤独な老人を一人でも救いたい」という強いメッセージに感動しました。そして、病院以外の場所で「生きるを支える看護」をすることへの関心が高まりました。

大学病院で長く勤務していると、役割とこ責任とか多くなってきて、そう簡単にはやめられません。病院での仕事も嫌いではなかったので、なんだかんだ四半世紀も居座ってしまいました。

地域医療の場に身を置いて、いよいよ訪問ナースの道へ

在宅医療への思いは高まり、ようやく大学病院を退職したものの、思うような景色を見れないまま時間だけは過ぎ、いい歳をして居場所も方向性も見失い、何よりもお金も無くなって働かないとマズイとなったときに入職したのがとある訪問診療のクリニック。このクリニックで地域医療のことや訪問診療のことをだいぶ勉強させてもらいました。何でもやらなきゃいけなくて、わかりませんとか言っていられなくて、地域医療の現場で体当たりで学ぶことになりました。ハードだったけど、やりがいあって楽しかったですね。訪問診療クリニックで経験したことは、少しこのブログの最初の方に投稿しています。まだまだたくさんの事件(⁉︎)がありましたので、いつか投稿しますね。

どうして開業する道へ行ったのか

訪問診療クリニックの後は、地域密着の個人病院勤務です。ここでも退院支援に力を入れてきました。そして、いよいよ看護師人生も終盤になってくるので、やりたいことはやっちゃおう!という勢いで訪問看護ステーションの開業に進みます。何だか雑いです。結局いろんな経験と思いがあっても、最後は勢いです。

大学病院も汗と涙の26年間だったし、訪問診療クリニックも超ブラックでした。でもどんなところで、どんな仕事をしていても、仕事は楽しかったしやってきてよかったと心底思っています。組織の制約の中ではあるけれど、自分のやりたいことをやらせてもらえていたと思います。

でももっと自由に自分の好きなように自分の看護をしたい!ということに尽きるのです。

訪問看護ステーション起ち上げようと思ってからしたこと

まず、どこから何から手を付けるの?

そう思いますよね。まずは、本屋さんに行きました。専門書を扱っている大きな本屋さんへ行って、数冊買いこんで、パラパラっとめくり眺める。どの本にも共通して載っていることから繰り返し読んでみる…のが、私のスタイル。一ページ目から丁寧に読むことは得意ではないのです。

訪問看護ステーション起ち上げに必須な段取りは何かというと、まずは法人設立、そしてヒト・モノ・カネをどうするか考えること。もちろん自分がどんな事業をしたいのか、なぜしたいのかなどは考えたうえで、が大前提ですよ。つまりは事業をしていく決意と理念を胸に抱いてからの話。

法人設立をどうしたか

法人設立は、昨年11月頃に取り掛かりました。4月開業を考えていたので、5か月前ということになります。そのころには幸い一緒に頑張ってくれるバディ(前回の投稿をみてね)ができていたので、あと一人探せばヒトは何とかなるから同時進行でいけるかな…と。といっても会社つくるってよくわからないので、「会社って何?」というあたりからググっていき、合同会社をつくればいいのね~というところまでは行きました。

でも定款とか法務局とかよくわからない、看護師しか経験のない私には印紙というものも聞いたことがあるけどね…というレベル。昨年はまだ病院勤務していて、休みの日に開業準備するという状況だったので、とある企業の会社設立サポートを受けることにしました。定款の土台も作ってくれて、印鑑も作ってくれて(有料)、どの書類を持って法務局に行けばいいのかも指示してくれます。しかし、一個一個の言葉の意味とか経験がないとわからない。印鑑が何種類必要なのかもわからない、角印って何に使うんですか?OLさんが聞いたら笑っちゃうレベルですよね、きっと。そうこうしているうちに、夜勤明けで法務局に行ったりして登記もして、12月に入ったころ何とか法人は設立できました。

いろんなことがニワトリとタマゴ問題に感じる

会社をつくって事業を始めるには、ヒトはもちろんモノとカネが要ります。そのモノの順番に毎回悩みました。事業所の場所を決めるのは最優先ですが、賃貸契約するのだから会社設立していることは必須です。で、契約するには会社の銀行口座とか電話番号とか必要なのだけれど、口座開くには電話番号が必要で、携帯電話契約には口座が必要で、固定電話には事務所が必要で、事務所契約には口座が・・・・・・・・・頭の中に鳥の巣ができてヒナがピヨピヨと鳴いています。結局個人の携帯電話を登録して会社の銀行口座をつくり、会社用の携帯電話も契約しました。やってみると悩むほどのことでもなかった気がしますが、一時期は「こりゃニワトリとタマゴだし…」と、思ったものでした。

結局はまず動いてだめなら戻ってやり直したりすることが必要ですね。考えていてもヒナが巣立って行って使い古しの巣が頭の中に残るだけですもの。

大事な自分たちの拠点

さて、手探りで会社をつくり口座もつくり、口座にカネをいれました。しかし拠点となる事務所を決めないと訪問看護ステーションの起ち上げ準備にはまだ取り掛かれません。実は、知り合いから格安で借りようと口約束していた物件がダメになり、途方に暮れることになったのは12月も暮れのこと…

東京都の場合、訪問看護事業を4月から始めるためには、2月には指定申請しなければなりません(申請期日は自治体によって違うようです)。指定申請には設備とか人員とか基準を満たしていることが必要で、事務所の賃貸契約はもちろん、固定電話とFAXも引かなきゃいけないし、什器もそろえなきゃいけないし。そのためには1月には入居できていないと無理でしょう。なのに12月末に物件が決まっていないなんて!多くの不動産屋さんは年明け9日から始業で、これは4月の開業なんて無理か?と思いました。でも休みの間にバディと一緒に不動産情報をネット検索して、年明けすぐに不動産屋さんに交渉して内見させてもらました。そしたら!ミラクルです、年明けすぐに内見した事務所がとても良いところで条件もばっちり、不動産屋さんもとても手際よく手配してくれて速攻賃貸契約へこぎつけられました。慌てはしたけれど、結果的に自分たちの満足する拠点が見つかったわけです。

1月中旬に賃貸契約し、急いでネット引いて固定電話とFAXを契約して(今時必要なんだね)、什器もそろえて何とか指定申請間に合いました。

何もかもギリギリの進捗でしたが、結果オーライです。

さて、次は設備ではなく中身を入れていく苦悩と苦労をお伝えしていきたいです。

*************************************ブログのタイトル変更しました。「みかんの木」には執着心がありますが、皆さんに認知してもらいたいのでわかりやすいタイトルにしたのでよろしくお願いします。

訪問ナースへの道を踏み出しました

昨年末で、病院勤務を終了しました。

2023年の年頭に「訪問看護ステーションを起ち上げる」ときめて、何から始めるか手探りしつつ日々過ごしていました。お金かかるし、事業立ち上げっていってもワタシニデキルカナ?なんて軽く考えていたときに、思い切り背中を押してくれたのは、その後バディになる年下のナース友達の「Kさん(私)と一緒に働こうと思う。今の病院、退職決めた」の言葉。

えええ~?仕事辞めるの?ってか一緒にやるって、本気?私で大丈夫~??

まずい、本気にならなきゃ!!!

本気になるきっかけができました。そして夢ではなく現実の道を歩き始めます。現実の道はイバラほどではないけれど、大きな岩を乗り越えつつの砂利道という感じ。訪看つくるにはまず法人格が必要で・・・ああ、社長になるのか・・・法人作るっていうのはそれなりに手続きが必要で、結構手間でした。とはいえ法人設立は訪看つくるうえでの土ならし程度。土台ができたところで、いよいよ夢を現実にするための場所を作っていきます。

事業所の命名

すこし話が前後します。法人を作る前に会社の名前や事業所の名前を決めなければなりません。名前決めは大事ですよね。訪看事業所としてわかりやすい名前、親しみやすい名前、覚えてもらえる名前、そして愛し愛される名前。自分たちが大事にしたいと思う名前。バディといろいろ考えました。

猫好きな私たちだから「”くろねこ”ってカワイイ」→「じいちゃんばあちゃんは黒猫嫌いかも。」「宅急便と間違われるかも」

縁起よく「七福」「丸福、いや、福丸」「福福」→「私たち、そこまで福々しくなれる??」

「おむすび」「おひさま」「まんまる」「七笑」「ひと笑」・・・・・・・

名は思いを表す…?

名前は、私たちの想いを表すものだと思いました。とても大事なものだと再確認しました。私たちが大事にしていきたいことは何?実現していきたいことは何?

私は編み物が好きで、暇を見つけては毛糸をいじっています。編み物って、一本の糸を紡いでいって丸くなったり四角くなったりして一つの形になっていきます。大きさもモフモフ具合も好きなように変えていけて、その人にちょうど良い形になってその人を暖めてくれるモノになります。編み物をしながら、ぼんやりと「紡ぐっていいなあ…」と一人ほっこりしていたら「つむぎ訪問看護ステーション」がポコッと生まれてきました。

想いをつむぐ、心をつむぐ、人生をつむぐ・・・いいじゃないですか!そして、私たちはさらに「地域のチカラ」もつむいでいこう。家で生活したい、自分らしい暮らしがしたい、そう思う療養者さんを支えるみんなを紡ぐステーションって、まさに自分のしたいこと。

理念が形になったロゴ

名前が決まったら、つぎはロゴマーク。形から入るって大事。私が入っているオンラインコミュニティサロンの方に作成を依頼して、とても素敵なロゴを作ってもらいました。ロゴを作るうえで「なぜ訪看やりたいのか」とか「10年後のビジョンは?」とか質問を下さって、その答えを考えて言語化しているうちに、さらに理念が形作られていきました。そのロゴがこちら。

このロゴは、自分の家で安心して暮らせること、そしてその暮らしはちゃんと外とつながっていて、周りは見守っていますよという安心感をあらわしています。正直、このロゴを作ってくださった方は、私たち以上に私たちの心を理解しているのではないか⁉と思っちゃいました。

こうやって、ひとつづつ手作りして事業をつくっていくって、なんて楽しいことでしょう。いやいや、なめているわけではありません。収益を上げていくって大変なことでしょう。だからこそ場所も名前も、そして仲間も愛して大事にしていきていのよね。

退院支援~103歳の「希(のぞみ)」

地域密着病院の急性期病棟で働いています。二次救急で搬送され入院してくる患者さん、圧倒的に高齢者が多い。病院あるあるだと思いますが、今や60代70代は「若い」、80代でそこそこ老人感はあるものの自分のことは自分でできるレベル(ADL自立という)の方が多い。90代でも癌の手術はするし、もちろん歩いて自宅退院して生活を続けていく方も少なくはない。

100歳超えていたって、足の骨折を手術してリハビリをして退院することもあります。今回は103歳で大腿骨を骨折して入院した女性のお話です。

もちろん「治療をするか、手術をするか」なんて年齢で区切るわけではありません。これまでの生活レベルや認知症の程度、治療や手術をすることのメリットとデメリットを考えて検討します。そこで大事なのは本人や家族の意志ですが昨日転んで足の骨を折るまでトイレに自分で行けていた人が、今日から寝たきりになるという選択をすることはないですよね。100年生きてきたから、もう痛い思いしたくないわぁ…って思う人は多いけれど、骨折して寝返りもできないほど痛いのだから何とかして~…と思う方が普通です。もちろん2週間も安静にしていれば骨折したままでも炎症が落ち着いて痛みも少なくなりますから、車いす生活レベルでいいなら手術をしないという選択もできます。

さて大腿骨の骨折で入院した103歳のKさん、物事をはっきり言う少し口の悪いおばあちゃん。娘さん2人は70代後半、家族仲はとても良いようですがそれぞれの生活を考えてKさんは有料老人ホームで生活していました。103歳でも認知機能はしっかりしていて、手押し車を使ってトイレにも行けていたそうです。本人も娘さんも手術をして、元の生活に近い状態に回復することを望みました。そして手術はうまくいき、大きな合併症もなく翌日からリハビリが開始されました。

痛いとか看護師が優しくないとかトイレが我慢できないとか鳥の餌みたいなご飯がおいしくないとか、いろいろ文句を言いながらもリハビリをしていたKさんですが、ある日突発的に発熱しました。軽い脱水から膀胱炎を起こしたようです。ご飯まずいお茶もまずいと食べる量が減っていたことが原因です。幸い点滴をして熱はすぐ下がりました。しかしその発熱を境にKさんの様子が変わっていきます。

もともと文句を言いながらも食べていた食事を、ほとんど食べません。車いすに座って食堂に行こうと言っても黙ってそっぽを向きます。まったく活気がなくいつもの文句も出てきません。夜暗い中、天井をじっと見つめていたりします(巡視の時ドキッとしました…)。脳障害をうたがって検査もしましたが、特に異常はありません。

家族の面会の前に「今日面会ですよ、良かったですね」と声をかけると「こなくていいのよ」。面会中も目をつむったままでした。

Kさんは何も言いません。文句すら言わなくなりました。会話ができないわけではないし、意識レベルが下がったわけでも認知症の周辺症状が悪化したわけでもなさそうです。まるで感情というものを捨て去ってしまったような、そんな印象です。食事も食べられないわけではないのに、食べるのをやめてしまったかのようです。

少し昔、私が大学病院で主任になったばかりのこと、20年位前のことです(少しサバ読み)。入院してきたある企業の会長のMさん、たしか80歳代だったと記憶しています。食事ができなくなって入院し、いろいろ検査をしましたがこれと言って原因になる病気はありません。大学病院ですからあの手この手で状態を良くしようとしますし、ご家族も治療を強く望まれていました。Mさんは食事はとらないものの、ほかの介護は素直に受けてくれます。食事を摂るためのベッドアップは拒否するもののシーツ交換をさせてくれというとスムーズに車いすに移ってくれます。私は看護師長に医師の見解や検査結果やバイタルサイン、本人の言葉と家族とのコミュニケーションの内容と、そしていわゆるアセスメントを「いかにもデキる主任」らしく報告をしましたが、本当のところ何もわかっていませんでした。

私の報告をきいた看護師長は、「Mさんはもう生きたくないのよ。ちゃんとした立場の人だから人に迷惑をかけることはしないでしょう。シーツ交換を拒否したら看護師に迷惑をかける、でも自分のためにはもう何もしたくないんだと思うの。Mさんがそういう気持ちになってる、もう生きたくないと思ってる、そういうことをご家族に話してみなさい」

バリバリの大学病院看護師だった私には、衝撃的な見解でした。どんな患者でも良くなることを目標に治療したり看護したりするものではないの?よくならないこともあるけれど、そこに向かって進むことが正義ではないの??生きたくない、もう終末を迎えたいと思っていると、どうやって家族に話したらいいの???

今思うと看護師の傲慢な考えに固まっていたと思います。食べられるなら食べるべき…病院で治療や看護を拒否するなんて…と。Mさんが本当に生きることをやめたいと思っているのかどうかわかりませんでした。でもそう思っているのかもしれないと、Mさんの気持ちに家族が、そして私たちが寄り添うきっかけになり、Mさんの希望通り自宅へ退院していきました。

さて、今回の103歳のKさん。病院での治療は終わり、食事できないのは本人の意欲の問題だけだから老人ホームに退院しましょうという事になりました。家族は納得できない部分もあるようですが、病院というKさんにとってストレスフルな環境より住み慣れた老人ホームで自由に過ごせるほうがいいでしょう。103歳のこれからの希はなんだろう。半分くらいしか生きていない(またまたサバ読み)自分たちには想像もつきませんが、文句を言ったいたころにもっとちゃんと聴いていればよかったと少し後悔しています。

もしかしたら老人ホームのご飯なら食べるかもしれません。病院の食事は鳥の餌だと言っていたのですから。いまごろ文句言いながらご飯を食べてくれていればいいなあ。